昭和39年12月09日 朝の御理解



 昨日は朝から、まぁいうなら朝から晩までですね、なんて言うんでしょうか、よその教会の、まぁ言うなら悪口というでしょうか、教会の内面暴露とでもいうでしょうか、そういうお話を聞く一日でした。もう朝からそうでした。夕べはそう青年部会でしたから、秋永先生が、あぁみえておりましたけど、あぁ会の終わるまで先生と二人で話した事で御座いますけども、先生が聞いて来た事もやっぱそうなんですねぇ。
 もう実に聞くに堪えない話ばっかり。ま九州中のと言うて良い位にですねぇ、お話聞いたんです。そういう意味合いでは親先生も、椛目の信心が椛目の信心が、ま愈々素晴らしい事になって参りましたとこう言う、どうでもその椛目の信心が、現在のそうして教団の中に浸透して参りまして、お役に立たして頂くなければホントに教団の危機というなら言う様な。感じが致しますと言うて、昨日秋永先生が言うております。
 まぁそのけれども私思うんですね。それでもやはりですね、それでもそれなりに、そおかげを受けておられると言う事ですよ。その教会教会が。昨日ちょうど私、善導寺から帰りましたらある教会の総代さんが、私を待っておって下さいました。あるお願い事の為に参って先日からそこの御大祭だったという訳ですねぇ。もそして自分の教会の先生のたなおろしなんです。
 もう親子3人連れ、先生はおんなさるばってんか、朝六時頃どんに参ったっちゃ、まだ表務まるち。総代がみんな寄っていくら言うたっちゃおんなしこと。それじゃけぇあんたどんが一生懸命お願いせにゃならんったい。という風な意味のことしか言われない。先日からもう、大祭でお客さんが、あぁ一人お泊り泊まられた。それで私どもに布団を借りに見えた。で私が申しました。
 テレビやら洗濯機どんばっりあんたんとこはこうちから、布団布団も買わんなちゅうてから、私が言いましたらと言うてからそんな話しとられました、けれどもならその教会はです。なる程そう言われればそうですけれども、ならそれはそれなりにたっとると言う事ですよ、やはり。やはりそこの先生を私も知っとりますけども、やはり何時もしゃんしゃんしておられますよやはり。別の内職しておられるわけじゃないです。
 ですから神様はですね、もう矢張りピンからキリまであろうけれども、それはそれなりにおかげを下さっておると言う事です。もうホントにそりゃぁもうホントに聞きよってからそれを事実とするならば、と思う様な話なんですけどもしかしそれはそれなりに、そのどこの教会でもそうおかげを受けられておると言う事です。ですからそのまぁそう言う様な内面暴露的な話を聞いて、その教会の悪口を言うた所で何にもならん。
 これは自分のこれは信心の場合でも、何の場合でもおんなじですけども、自分のし頂いてる信心を、立派なものにわかってもらうために、よその悪口を言うちゅうのはねぇ。それを対照にすぐ引き出すというわけです。例えて言うとなるほど、甘木あたりの信心は素晴らしいです。最近何かそれを思います。ああいう素晴らしい信心が、私共のほんの何里か離れたところに、ああいう大徳の先生がおられたのに。
 その先生の信心に接っしられ、られなかったってことは、実に残念なと思うんですけれどもね、それを阻んだもの。それは一つにはなになに派ま、久留米派とか、甘木派とかと言った様な、そのう縄張り的なものもあったんですけれどもね。一つはやはりそこの信心を頂いてです、甘木の信心が余りにも素晴らしいもんですからね。余りにも素晴らしい信心を、いわば吹聴するわけです。
 そしてそこの、ほかん教会の信心を、こき降ろされるもんですから、それがですね、やっぱ抵抗になっとったと、言う理由もあるんです。私共でもやっぱそうでしたですねぇ。でまぁ甘木の平田さんやら、樋口さんあたりも、有名な信者さんからの話を聞くんです。話を聞いて、なる程と合点がいくんですけれども、最後にはあんたがたの教会は、どういう風か、という感じ。
 そして、自分の親教会筋あたり、久留米教会をたなおろしされるとですねぇ、悪口を言われると、もうそれでやっぱ抵抗を感じて、甘木がなんかって言ったようなのが、やっぱ感じられておったです。ですから、これはですねぇ、どうでも一つおかげを頂きまして、そのうこれは自分の頂いておる信心と、こう御広前の信心が、素晴らしいなら素晴らしいほどですねぇ。
 ただ、素晴らしいことだけは言うてもよいけれども、そのためによその悪口を言うてはならないということですねぇ。現在も椛目はもう、昨日話を聞かせていただきましたら、なるほどその、そこに引っかかり、ここに引っかかりするはずだという、そのまぁ原因もわかったんですねぇ。それがですねぇ、椛目の信心があんまり素晴らしいということを、その、まぁこう、表現する為に、よその悪口を言うわけなんですねぇ。
 だからそう言う悪口だけが向こん方にいってから、その椛目がもういくら教会を申し出ても出来てない様になっておるとか、あそこの大坪さんがいくら検定を受け様と思っても、もう話し合いが出来てからちゃんと、検定受けさせん様に出来ておると、話を聞いて来ておるわけなんです。それが事実かどうか、知らんけれどもですたい、ねぇ。で、そのまぁ別にふんなら。
 あぁ私が何時も言う様に教会に本当にならなければならんと言う事もなからなければ、なら教師の資格も必ず取らなくてはならんと言う事もないのですから。それはそれでいいのです。そいでそのえぇまぁ、(中に)こんな話があるんですよ。昨日、壱岐教会の御大祭にこの頃から、あちら、ご長男帰っておられる。でその代わ、信心はあまりにその素晴らしいと言う事を話されたのは良かったんですねぇ。
 けれどもその他の教会の悪口を言われたわけです。丁度福岡からいわば若先生が、親先生の代わりにあちらに行っておられた。ほれでまぁ言わば討論の様になって、親教会と討論の様なって、壱岐とその福岡の間に、ほいでもうあちらのお父さん、まぁもう大変困られただろうと思うんですねぇ。ほっでまぁあちらのお父さんは、福岡の親教会の肩を持つために仰った事でしょう。
 私も椛目に一遍おかげ頂いて、なるほど素晴らしいごひれいだとお話頂いとって、なるほど良いお話だと。けれども椛目の金光様は、どうしてあげんお社は、細かと言わしゃったそうですたい。息子さんが言うておられることがですねぇ、あげん細かったっちゃあげなごひれいじゃけぇ、大っきならどげなごひれいが立つか知れんばいち。あんたどんがてんでこう大っきな神様を拝んどるばってん、人は助からんじゃないかと。
 今九州中で、椛目の先生ごと、素晴らしい先生がおるかち。この頃からめくらが来たげなが、目が開くて断言をしなさったげなが、そげな、断言できなさる先生でも、九州に一人でもおるかち( ? )話たっち。まぁ大笑いしたことですけども。椛目の信心を、そういう風に説明すると大変、私自身困ると思うんですよ。そういう、例がないじゃないです。あります。
 けども、そういう事だけが椛目の信心かと思われたらですね、やっぱりそのそういう程度の信心かとしか思やしませんでしょう。ほいでも、椛目のことを分かって貰いたい積りで言うたのが、てんでてんやわんやですねぇ、返ってあのうもう血の雨の降る寸前のごたる話を、聞かして頂いたんです。ですからもうホントに是はもう、お互い心しなければならに事ですよ。ね。ですから素晴らしいと言う事をですね。
 それぞれの信心によって、あのう感じた事話す事はいいけれども、その素晴らしい事でもです、私は本当の椛目の信心の真髄に、触れての話じゃなからいかんと言う事。サアめくらが目が開いた、ちんばが立ったという話だけじゃいけないと言う事。もう昨日私はもうホントに色々のお話を、あのう聞かせて頂いたんですけども、ホントにそういう意味での、椛目がおかげを頂かなければ、ならんなぁとこう思うのですけれども。
 これは私だけではいかん。皆さんもです。例えばあの、甘木の素晴らしい信心を、甘木の信心を頂かれた方達がです、素晴らしい話をなされただけなら良かったんですけれども、そのために、私達の頂いておる教会やら親教会のことまで悪く言われたら、それに抵抗を感じてですねぇ、甘木の信心を頂こうという気が起こらなかったです。ね。例えば椛目の信心を頂こうと思うておってもです。
 椛目の信心の、素晴らしい事だけを言われるならいいけども、あんたがたはそげなこっちゃいかんとか、こげな事がおかしいとかっていうて指摘されたら、誰でもいい気持ちはしません。ねえ、ですからこれは私は、信心だけの事ではないと。自分達の様々な、日常生活の上に起きてくる問題の上にもです、自分の考え方やら、自分のしておる事やら自分お教えやらが、こうも立派だと言う事を言うたびに。
 人の悪口をその店の、悪口を言う様な事では、おかげは受けられないと言う事です。私共にはやっぱりそれがあるんですよね。ですからここはもうホントに、慎まして頂かなければならない。私の方の店は、ここが特徴でございます。よそはこういう欠点がありますけれども、よその欠点を持ち出すんじゃぁなくて、だから自分の店の長所なら長所だけを言っていけばいいということ。
 返ってそれが相手の抵抗を、買う様な事になってです、結果はよろしくないと言う事。おかげは受けられないと言う事。今日は私はそう言う様な、事にですねぇ、焦点を置いてついつい自分の頂いておる信心、自分の頂いておるお広前の、まぁ言うならよい所ひとつを説明する為に、よその教会の悪口を言う様な事がもう、金輪際あってはならない。いよいよ今日から御本部参拝でございますから。
 そのう特にそういう心がけを持って致しませんとです、そう言う様な事が椛目の信心の、まぁ間違っておるとか、きざだとか言われるような、対象にでもなったら、返ってごひれいを傷つける事になりますから、心しなければならない。同時に椛目の信心を説明するならです、整然と理論、ね。本当に椛目の信心が説明できれるとこまでです、椛目の信心を体得すると同時に表現の事もです、考えておかなければならない。
 咄嗟に言われると、ついそう言う事を言ってしまうんですよ。昨日四時過ぎに、子供達が小学校、みんな帰って参りましてから、いきなり私が炬燵に入っとりましたら、栄四郎が言うんですよ。「お父さん、お父さん。だいたい神様ちゃぁどげな人のう」っちこういう。私はとっさにそれこそ説明に困ったんですよ。ね。それでなしそんな事言うんね、と言ったらそのきょう。
 先生が神様ちゃぁどげなつか知っとるかち言わっしゃったっち。そりけん御本部に金光様ちござるち。それが神様ち僕が言うたら、先生が言わっしゃったっち。金光様だけが神様だけじゃなかぞち言って言わっしゃったち。だから神様ちゃどんなのが神様のち、繰る返し聞くんですね。それが見やすう子供、子供に分かりやすく私説けなかったんです。で後から考えたんです。さぁこりゃこういう時に、こういう風に説明せにゃいけんだろうとこう思ったですけれどもね。
 やはり椛目の信心はと、とっさに言われた時です。こう説明させて頂いたら、椛目の信心を傷つける事もなからなければ、いよいよ間違いがないなぁと。こを合点して頂く事にもなるのでしょうから、やはりそこんそういう場合にですね、どう答えられるかと言った様な勉強にしとかなければならんと感じました。おかげ頂かなければいけません。